温故知新!日本最古の「カルテ」は安土桃山時代から
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、名医の名をほしいままにした曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が書いた『医学天正記(いがくてんしょうき)』が日本最古のカルテといわれている。これは玄朔が数えで28歳から58歳までの30年間にわたる診療記録を整理したもので、医学だけでなく史学の文献としても大変貴重な史料である。
内容は、中風から麻疹に至る60種類の病気とその治療法を部門別に分類し、患者の実名・年齢・病状・診療の年月日を入れ、日記風に記載して漢方医療の基本をわかりやすく説明している。時の帝である正親町天皇・後陽成天皇から庶民に至るまで、数多くの患者の詳細なデータが書かれていて興味深い。また歴史上の人物たちの治療にもあたり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・加藤清正などの名前も散見する。
玄朔は患者の体質や性格、生活習慣まで把握し、いわばオーダーメイドの漢方医療を施していたというから驚きだ。その功績が認められて、のちには江戸幕府に侍医として出仕するようになった。
玄朔は、伯父であり師であり養父でもある名医・曲直瀬道三の跡を受け、二代目「道三」の名を引き継いだ。江戸の古地図には「道三橋」「道三堀」が載っていて、当時の彼の要人ぶりをしのばせてくれる。
また江戸時代の後期には、堀元厚がカルテの書き方を『医案啓蒙』に著した。東洋医学では、患者の病歴から治療法の経過や所見を書いたものを医案または病案と称していた。医案は、疾病の各段階における症状を記録するという点においては現在のカルテと共通するが、医師の価値判断によって取捨選択された症状と経過のみを記録するという点に特徴があった。つまり、病人の症状や徴候についてすべてを記載することは要求されなかった。それは、漢方医療では同じ病気でも患者が違うと薬の処方が違っていたことに起因しているといわれている。
ところが、明治時代にドイツから西洋医学が入ってくると、診断記録も詳しい症状をドイツ語で書くようになった。ドイツ語で「カード」を意味するカルテの呼称は、森鴎外以来の日本の医療がドイツを規範にした影響の名残である。
ドイツに医学研修に行った留学生が、患者の状態や処方を記録するカードという意味で使っていた言葉を、誤認してそのまま医学用語として日本で定着させてしまった。明治時代以降しばらくはドイツ語でカルテ記入をしていたが、語学力の低下とアメリカ医学の流入で、しだいに英語や日本語で書くことが一般的となった。現在では、電子カルテによるコンピューター入力が主流になりつつある。
しかし、カルテが患者の治療に役立つあらゆる事象を記録するという点では、今も昔も、紙も電子もなんら変わりはない。
画像注釈:大分県村上医家史料館に所蔵されている「医学天正器」の写本