医療の先達「手塚治虫」「森鴎外」
「手塚 治虫」
1928~1989年。大阪府豊中市生まれ。46年に漫画家デビュー以来、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』などのヒット作を連発した。60年代後半の低迷期を経て、『ブラック・ジャック』などにより復活。日本が誇る漫画の神様である。 漫画を日本が誇るカルチャーに育て上げた「漫画の神様」、手塚治虫。戦中に医学を学んだ彼は、豊かな想像力と表現力を駆使して、医療漫画の金字塔『ブラック・ジャック』を描きあげた。
「本業は医者、漫画は副業」
1945年、大阪帝国大学附属医学専門部に入学した頃から漫画連載を開始。専業漫画家になることを決意するが医学の道もあきらめず、51年に医学専門部を卒業。大阪大学医学部附属病院のインターンを経て、53年には医師免許を取得した。
これらの経験を生かして描かれた医療漫画の金字塔が、『ブラック・ジャック』。主人公の医師は、無免許で法外な治療費を請求する破天荒な設定ながら、「医師は患者の延命を行うことが使命か、患者を延命させることで患者を幸福にできるか」といった普遍的なテーマを扱い、好評を博した。
手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と語っている。手塚と医療との関係は、切っても切れないものだった。
写真提供:手塚プロダクション
「森 鴎外」
1862~1922年。島根県津和野生まれ。東大医学部卒。文芸での高名は周知の通り、『舞姫』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟』などが代表作である。
文壇で数々の傑作を生み出している森鷗外は、陸軍の医療衛生を担う官僚としても手腕を振るっていた。軍医としての足跡を辿ってみると、鷗外の新たな一面が見えてくる。
軍医でありながら小説家 二足のわらじを履きこなす鬼才
代々、津和野藩主亀井家の典医を務める名家に生まれ、11歳で上京。診療所を営む父の背中を追いかけ、医学修得に必要なドイツ語や蘭学の知識などを貪欲に吸収していった。その向学心は、当時入学資格が15歳だった第一大学区医学校予科(現・東大医学部)に年齢を2歳詐称し13歳で入学したほどで、19歳での卒業は現在も東大の最年少卒業記録である。
卒業後は、陸軍軍医としてドイツに官費留学し、『ビールの利尿作用について』というドイツ語の論文を書くなど、衛生学および軍陣医学を修学。帰国後は、「脚気の原因は伝染病」という立場を貫き波紋を投じるも、日清・日露戦争にも従軍して順調に昇進を重ね、1907年ついに陸軍軍医総監・陸軍医務局長という軍医としての最高職に就任した。